R太のざっくり雑記

40代おじさんです。ベトナム出張がブログの書き始め。現在は、育児や料理、英語など興味のあることをざっくり備忘録として記してます。質はともあれ、なるべく頻繁に更新します!

2021年06月

クローズアップ現代の男の性被害の回を見た

早朝バイトの後に小一時間ほど時間があるので、いろいろ暇つぶしをしている。
最近は、ドキュメンタリー番組を見ている。このような番組を見ると、いろいろと自分の知らない世界があることに気が付かされる。もうアラフィフに近づいているのだが、今回も、まだまだ未熟であると痛感させられた。

クローズアップ現代の男の性被害についての特集である。
男の性被害って子どもの時のだろ?って思っていたが、ここに出てくる方々は中・高校生を下に、結構な大人の社会人などであった。

いわゆる非力な子供が、ペドフィリアに…という図ではない。
はっきりいおう。
大人の男の性被害なんて、ちょっとした面白ネタだろ?と思っていた。いや常日頃からは思っていないが、深層心理ではそうである。ところがそういったいわゆる、男は性被害なんてあわないよ?みたいな偏見がまた、被害者を追い詰めるのである。

番組の中盤、具体的に成人男性の性被害を描けない俺に、とんでもない具体例が叩きつけられた。

その男性は、会社の同僚にサウナに連れていかれたらしい。サウナで汗をかき、レモンサワーかなんかを奢ってもらったとか。汗をだして、冷たいアルコール…最高である。しかし、ここに睡眠薬が入れられていたらしい。

その後、酩酊した男性は幾人もの男たちにレイプされてしまったらしい。おしりを肉棒で貫かれたのである。尻が痛いに違いない…。この段階でアメリカの僻地の刑務所みたいなことか…と思った俺。それでも、まぁ、あるかもな程度である。

しかし、その後画面が移り変わり、何やら男性が毎月か毎週病院で検査している場面が。
何かの値が落ち着いています…という医者。何だろうと思っていたら驚愕の事実が!なんと、レイプされた男性はそのうちの誰かに、HIVウイルス、つまりエイズを移されてしまったらしいのである。

エイズは今は死なない病気とも呼ばれるが、性感染症としては最悪のものである。不治の病なので、薬が手放せない。
たかがサウナにいっただけで、レイプされエイズをうつされた男性。恐ろしすぎる。この男性も、自分がそんな目に合うなんて思ってもいなかったという。つまり、我々と同じ側にその前日まではいたのだろう。

その日を境に、この男性は、精神的にも肉体的にも痛めつけられてしまった。こんなの笑いのネタになるか?なるわけない!これを見てはじめて、男女問わず性犯罪の被害に遭うというのはとんでもないことだと思った。

もちろん、男の場合はちょっと笑える話もあるのだろう。
しかし、ちょっとどう考えても笑えない話も同じくらいあるということは知っておかないとならない。

まずは、サウナに一緒に行かない。レモンサワー飲まないという短絡的な自衛策をとることにする。
しかし、中で言及していなかったが加害者は同僚であろうか。同僚に一杯食わされたのだろうか?いくらなんでも怖すぎる…。

大腸内視鏡検査 2021終了

毎年やっていた内視鏡検査。昨年はコロナの影響でやらなかった。実際、ここ数年は潰瘍性大腸炎の寛解期なのでほぼ症状はない。なので、内視鏡検査をしても個人的には意味がないかなと思うのだが。

とはいえ、一応発症から10年経過すると大腸がんリスクがやや上がるらしいので、一年にいっぺんはやっとけ~!という主治医の意見にしたがい二年ぶりにやってきた。

今回も全腸ではなく、さきっぽだけ内視鏡で見るので浣腸のみ。
またまた浣腸されて3分粘ったが、もう腹がぎゅるぎゅるしてきて、脱糞。おなじみの展開である。そこからこなれた感じで内視鏡センターへ。検査着に着替えて、検査台へ。尻を破られ、カメラが挿入され、うっという感じで下唇を噛んでいる間に終了。

今回もきれいな大腸がお目見えした。今回も問題なしで一安心。

俺のこの病気は、発症が2009年あたりなので、潰瘍性大腸炎歴はや12年である。俺は直腸型なので、発症時もひどい人に比べればいい方だった。しかし、放っておけば確実に全腸型になっていたり、ひどい時は大腸をとらなければいけなくなっていたかもしれないので、早めに病院に行っていてよかったのだといえる。

しかし、当初、個人病院のようなところでこの訳の分からない難病を告げられた時は、頭に血がのぼったものである。何をいっているのだと。今まで健康的に過ごしてきた人間が、いきなり難病ですといわれるといろいろな反応を示すだろう。俺は、どうやら怒だったようである。そこから、あいつ(医者)おかしい、と総合病院のセカンドオピニオンを受けたところ、あなたは潰瘍性大腸炎という難病ですといわれ、がっくりした思い出がある。

難病といえば死を連想してしまうが、結局難病というのは現代の医学では完全に治癒できない病気の通称である。そこには、死がちらつくものから、日常生活が少し不便になる程度の病の間でだいぶグラデーションがあるのである。運よく、俺は死がちらつかないものであったので、今考えればラッキーだったと思える。

基本的に投薬治療で、寛解したが最初のころは下血が凄くてちょっと大変だった。
でも、それも今となってはあんなことあったなレベル。体の不調は結局、その真っ盛りの時はほんとに心身ともに大変だが、それを超えてしまうと他人ごとのようになってしまう。そう考えるとフィジカルな苦しさというのはきわめて個人的なものである。自分で耐えて、超えていくしかない。

助けになるとすれば、同じレベルの痛みや苦しみを現在も持っている人であろう。
そういう意味では患者会みたいなものは、当事者たちには本当に助けになるのかもしれない。俺のように誰と共有すればいいのかわからなくなってしまったくらいの人は、なかなか人にこの病気をいうのも憚れる、逆に。

難病なんだけど、全然制限なしで食事もできるし、ハードに動ける。
恵まれているんだが、なんだかわからない。だからこそ、年にいっぺんくらいの内視鏡は受けて、俺は難病なんだという自覚をもつのもいいのかなと思う。ここまできたら、絶対大腸がんは発症させないという気合だけはもっている。でもがんってそういう気合入った人が、罹患したりするから怖いよね。

キッチン飲み

キッチン飲みが最近少し流行っているらしい。
小倉優子が、料理を作りながら飲んで少し危ういとか言われていたのも記憶に新しい。子育て中の女性に多いというキッチン飲み。いや、まぁ昔からあるキッチンドランカーなのであるが、少しぼかしている。

キッチンドランカーはなんていってもアル中ビギナーの匂いがプンプン漂う。
実際、そこからアルコール中毒になる人も多い。

かくいう俺も、キッチンの飲みをやることがある。
有休をとって、一日自由な日に多い。子どもも学校で、奥さんも外でなんか用事。そんな時に、昼間から料理をしだして、酒を飲む。なんだかんだ料理はインスピレーションである。アルコールはソレを刺激する。ミュージシャンがドラッグを使うのと同じ感じかもしれない。
とはいえ、もちろん才能はないのでの、すごい料理は生まれないが…。

たしかに台所で飲みだすと止まらない。
なぜだろうか。俺は、断然、距離感と違和感だと思っている。冷蔵庫に近い、熱燗をするための電子レンジに近い。この距離感って結構あるんじゃないだろうか。すぐに、手に取れる距離…。

それと、違和感。
この違和感は違和感がないという意味の違和感である。そう、昼から酒を飲んでいても、台所なら違和感がないのである。これが、テレビドラマをみながら、酒を飲んでいたらどうだろう。旦那が帰ってきて、おい!となるところも多いだろう。

その点、キッチンはいい。なんだか味見をしている風情になる。
飲んでいるという罪悪感が薄く、周りからの違和感もなく、すぐに酒を手に取れる。それが、キッチン飲みの正体であろう。はっきりいって、アル中路線まっしぐらである。

毎日やっていると、明らかにヤバい気がする。たまにしかやらない俺でも、キッチンでは酒量が通常の2倍くらいいっている気がする…。主夫になったら、間違いなくアル中になってしまうことをここに宣言する。気を付けよう。

日本のジェンダーギャップ指数

世界の男女平等の度合いを示すランキングを「ジェンダー・ギャップ指数」というらしい。それで、日本は156カ国中120位だと。こりゃ低いなぁとおもいつつ、まぁそうだろうなと思う。

日本のもろもろを決める最高組織が政府であるが、そこにいるおっさんの数をみれば、さもありなんである。ところで、最近気づいたのだが、小学校である。女性校長が増えているんじゃないだろうか?

子供が通っている小学校はそうだし、教員も圧倒的に女性が多い。いいじゃないかと思う。
もっとすごいとこがある。幼稚園、保育園である。園長とかは男性が多いかもしれないが、圧倒的に女性職場である。

そう、初等教育の現場は、管理職を含め、びっくりするほど女性が多い。
しかし、なぜかそこから年齢を経るごとに女性が消えていき、女性といえば、最終的に非正規雇用の人たちが多くなってしまう。

なんなのだろうか?はっきりいって子供は混乱するだろう。
あんなに教育をリードしてくれていた女の人たちが、社会に出るとあまりいなくて、むしろ低賃金で使われる側が圧倒的に多くなるなんて…。これは社会システムによって男尊女卑を体現してしまっているに他ならないのではないだろうか?せめて、小学校や幼稚園の場にいるくらいの半分は、企業や政治家などにいてもいいのに。

社会にも母的な役割を強引に当てはめて、介護的な仕事ばかりを割り振っているのだろうか。

しかしながら、前になにかで言っていたが、今のような状態で、女性の管理職数を一気に増やしても意味がないという。結局は、今まで育ててきていないので日本人女性を管理職にすると、男とそう変わらない感じになってしまうらしい。または、おっさんの操り人形みたいな…。

どうするか。管理職大国の外国からバリバリの人を呼んでまずはなってもらうのが一番であろう。その外国人カリスマ女性管理職が、日本の多くの若い女性に影響を与えるだろう。そこから、徐々に女性管理職を増えていく。悲しいかな、経験豊富な革新的な人じゃないと、やっぱなんも生み出されないんだよね。

そう考えてみると、子どもの小学校の校長は女性ではあるけど、やたらと保守的な人っぽい。結局、従来のやり方から、まったく何も変わっていない感じなのである。男から女になるのなら、やり方はガラッと変わらないとまったく面白味もないのである。

白石一文の小説読んだ

「私という運命について」以来、白石一文のちょっとしたファンである。
なんだかんだで、ほぼ全部読んでいる。なんだか、読みやすいのである。マジックリアリズムというか、現実の出来事をうまくフィクションにとりいれつつ、それでいてちょっとスピリチュアルな部分もありで、とても好きである。今回読んだのは、自伝のようなものである。
君がいないと小説は書けない
一文, 白石
新潮社
2020-01-20


彼自身は作家の息子であったり、元・文芸春秋の敏腕記者であったり、直木賞受賞したりとなんというか一般人がみるとかなり羨ましい位置である。しかしながら、精神的な病気を長年抱えていたり、エライ人嫌いだったり、妻と子供と縁切りのようになっていたりして、とてもいい人生ではないと本人が言いきっている。

それでも、現在は美しい内縁の妻みたいのに恵まれたり、出版活動は頻繁だしとまぁそれでもいいじゃないのと言いたい感じである。
そんな、自分の人生を語っているのだが、その中で作家には若くしてなるもんじゃないというような文言があった。

小説が好きな自分としては若くして作家になんて羨ましいことこの上ない、と思う。
しかし、著書で、人生活動が未熟なまま小説家になどなってしまうとどういうことが起こるかということをなんとなく皮肉たっぷりに語っている。つまり、生きて起こることすべてが作家の題材になってしまうリスクである。

たしかに、何がおこったとしてもこれをネタに書いてしまおう!などと思っていたら、その事象自体に深みは生まれないだろう。それはつまり、自分の人生を神の視点というか第三者の書き手のような視点ですごすことに他ならないからである。

例えば、早朝スーパーのバイトで店長に怒られるとする。そのストレスを普通人ならどうするだろうか?そう、妄想の中で店長を裸にしてギタギタに鞭でひっぱたいて、怒りをリカバリーするのである(ほんとか?)。

しかし、作家の場合はこの事象を書いてやろうという視点がそもそもだから、この怒られて自分が悪いにもかかわらずイライラする怒りは生まれてこない。怒りを生み出さずにただ、その手前でものを書くことのなんたる未熟なことだろうか…。

わからないが、そういうことを白石一文はいっているのだろうとうなずけた。
老成すれば老成するほど物書きはいい。そんなことを勝手に解釈しながら、まだまだ俺も小説家としてデビューできる可能性があるのではないか??と自問した次第である。まったくその努力はいまのところしていないにも関わらずである。
スポンサードリンク
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

お問い合わせ