逃げて大丈夫というような記事。
本当によくわかる。そう、つらいよね逃げていいよ…と。
最近も、芸能人のママタレみたいな人が、不登校に寛容な態度を示す記事があった。
フリースクールに行くのもひとつの手である、と。
まぁ、そのママタレさんの子どもは当然ながら不登校でもないんだけど…。
あくまで、想像して共感をしているのだ。もっと踏み込むと、自分の子がそうなったらと。
共感ってすごい大事。そして、共感は想像力である。
想像とは実際に起きてないことをあたかも起きているかのごとく考える力だから。
それがなくては、始まらないといえる。
でもね、いつもそういった記事は不登校になる子供に向けられているのよ。
だから、まなざしが優しいし、言ってしまえば無責任なのだ。
不登校児をもつ親に向けられた記事は、かなり少ない。
なぜなら不登校児の親の気持ちは、そうなっていない人には全くわからないといえるからである。
俺がそうだから。
今となっては、週1行かないくらいのプチ不登校で、分かった気になっていた自分を恥じたい。
完全不登校の恐ろしさたるや…。
不登校に寛容な気でいたが、結局自分の子どもは完全不登校ではないのなら、それは綺麗ごとであった。
不登校児の親は、着地点としては子供の不登校を認めてもう何も言わない というところに行きつく。
だが、そこに行きつくまでの修羅場たるや。暴言、暴力、虚脱、自虐、劣等感。
親と子ども双方が傷つけ合い、ボロボロになった末に不登校が出来上がる。
対外的にも担任との話し合いや、給食費とめたり、荷物持って帰ったりも結構キツイ…。
いきなり不登校児を、OK分かった明日から行かんでいい!と認めらる親なんか、いるんかな??レアだろうね。
認めたところで、
・毎日子供がゲームをしている。
・給食がないので、栄養が偏る。
・勉強をまったくしない。
・単純に家にいるので、家を簡単に空けられない
などなど親にとっては困りごとのオンパレードである。
学校とは、子どものためというより親のためのものであるといっても過言ではないくらいである。
これは、ある種の新しい視点といってもいい。
なら、フリースクールに行けばいい?
いや単純に金がかかるし、フリースクールったって本人はそう簡単に行かないのよ。
不登校を認めて、エネルギーを貯める期間が必要?わかるけどね。それ、いつまでなのよ!
そう言っている間にも、他の子どもたちの元気な声が外から聞こえる。
その劣等感たるや…。他の子ができることが自分の子はできない…。という。
こういった、日々の心配事に加えて、他の子と比べてしまうということからも耐えなくてはならない。
もう、厳しい寺の修行僧を超える忍耐力を持たないと耐えられない。
そんな時に目にする、不登校…いいじゃない。という記事の腹立ち度たるや。
んじゃ、われの子がなっても言えるんだな!という理不尽な怒り…。
そう、お気づきだろうか。不登校は子供はもちろんだが、親がいい年齢になった自分自身と対峙しなければいけない、そして価値観をガラリと変えていかなければならない機会なのである。
そこそこ、社会経験も積み、あとは子供を育てつつ、年齢を積み重ねていけばまぁいいか。と思っていたのに…。
これは大変である。
これを、あの時は大変だったなぁと他人ごとで語れる日が来るようになるのだろうか。
先が見えないトンネルを進んでいるときに、大丈夫大丈夫、逃げていいよという無責任さ。
いや逃げてトンネル入ってんだけど!
トンネルにいない人に、共感を求めるのは無理があるなぁ。やはり、同じように暗闇に逃げ込んでしまった人達しか、共感はできないのである。しかし、暗闇だけにお互い会うのも難しい…。
なかなか難易度が高いのです。
先が見えないトンネルを進んでいるときに、大丈夫大丈夫、逃げていいよという無責任さ。
いや逃げてトンネル入ってんだけど!
トンネルにいない人に、共感を求めるのは無理があるなぁ。やはり、同じように暗闇に逃げ込んでしまった人達しか、共感はできないのである。しかし、暗闇だけにお互い会うのも難しい…。
なかなか難易度が高いのです。