ドキュメンタリーをよく見ているが、どうしても多くなるのが闘病もの。がんなどは、誰にでも訪れる可能性があるのに、自分は大丈夫と思っている。

有名なキューブラーロスの「死ぬ瞬間」で、すごい目からウロコが落ちる記述がある。人間は、不幸なことや人の死をニュースなどで見ると、自分の不死身性を再確認するのだそう。

何でもいい。
例えば通り魔でたくさんの人がなくなるニュース。
これを見て、自分もどうなるかわからない…などと口ではいうが、その実、深層心理では、「やはり今回も自分ではなかった=自分は死なない」となるのだそう。

別に、悪いことではない。そうやって、自分は違うと思っていないと、気が狂ってしまう。それだけ、死というのは怖いものだからだ。

ところで、この前見た白血病で闘病している若者。SNSで積極的に発信していて、がんになってよかったという言葉が物議を醸したんだそう。この言葉だけとり、批判してくる人も多いらしいが、内容をみると、とても批判できない。

スポーツ万能で京大に現役で合格した順風満帆の人生に訪れた、過酷すぎる運命。

どこか性格的に尖っている彼。しかし、過酷な移植手術の前に、SNS経由で寄せられる大量の知らない人からの励しに、素直に感動する。インテリでタフそうな彼でも、SNSからの声というのは予想を反して、励まされるらしいのだ。

SNSからの励ましに力を得る闘病患者は、ネット上にたくさんいる。最初は、訝しく思っていたが最近わかってきた。親しい家族や友人とは違う、ある種、無責任なつながりが死と生の瀬戸際にいる人にとっては大事なのだろう、と。

もちろん、実生活は家族によって支えられる。しかし、距離感が近いだけに、その家族を病気によって苦しめている自分に心が痛む。そんなとき、ゆるい人たちが、大丈夫と言ってくれる。そういった、吐き出せないものの、はけ口として、ゆるい繋がりの人たちが活躍する。

同じ病の経験者とも、かんたんに繋がれるもの大きい。

たかが、言葉のやりとりで何が?と思うが、だからこそ、救われる気持ちがあるのだろう。

ネットのその先に、時間を使って返信しくれる人がいるというぬくもり。
世代的に、さすがにそのようなつながりをいきなり作れそうにもないが、もし重病になったら発信したりしたほうがいいかもなぁと思った。

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)
エリザベス キューブラー・ロス
中央公論新社
2001-01-01