ギターやベースを、部屋の手の届くところへ移動させようと思っている。
今は、机の横のデッドスペースにガラクタのように重ねておいている。これでは、楽器がかわいそうである。少々手狭になっても、ちゃんと手に取れるようなところにあったほうがよい。

何気に、ベース二本、ギター二本、アコギ一本、子どもギター一本で、計六本もある。

どれもこれも、深い思い入れが…あるとみせかけて、そうでもない。この中で思い入れがあるのは、フェンダーのストラトと中古屋で買ったマニアックなベースくらいか。いや、アコギのヤイリのギターも結構すきだ。そう考えると、子どもギター以外は思い入れがあるのかも…。

子どもギターはイカン。
何がイカンってチューニングがすぐ狂うからである。子供用だからか、匠の技がまったく効いていない。子ども用だとて、楽器はちゃんとしたのを買ったほうが良いよね。子供は今のところ楽器に、あまり興味を示さないが。

ところで、ギターと料理はよく似ている。
どうしても、高価で良い楽器がほしくなる。ギブソンやグレッチやリッケンバッカーや…。料理だといい包丁や、鍋などである。しかし、それを買ったところで、プレイヤーの技術がないとまったく意味をなさない。結局は、どんなものを使っていても、使い手次第である。

なにか、閃いたようなことを綴っているが、よく考えたらめちゃくちゃ凡庸である。それと、別のことを閃いた。最近ほしくなったけど、結局買うのをやめたホットクックである。これは、食材を入れるだけでおいしいカレーやシチューが仕上がるやつである。

プレイヤーが誰であろうと関係ないこういった技術が増えていくと、結局、人間の鍛錬による技術というのが意味をなさなくなる。音楽だって小説だって、いずれAI学習で人間を感動させるものがでてくるに違いない。

それでも、人はそうやって人間ではない何かによって創作されたものでも満足するのだろうか?
とても興味がある。