「私という運命について」以来、白石一文のちょっとしたファンである。
なんだかんだで、ほぼ全部読んでいる。なんだか、読みやすいのである。マジックリアリズムというか、現実の出来事をうまくフィクションにとりいれつつ、それでいてちょっとスピリチュアルな部分もありで、とても好きである。今回読んだのは、自伝のようなものである。
君がいないと小説は書けない
一文, 白石
新潮社
2020-01-20


彼自身は作家の息子であったり、元・文芸春秋の敏腕記者であったり、直木賞受賞したりとなんというか一般人がみるとかなり羨ましい位置である。しかしながら、精神的な病気を長年抱えていたり、エライ人嫌いだったり、妻と子供と縁切りのようになっていたりして、とてもいい人生ではないと本人が言いきっている。

それでも、現在は美しい内縁の妻みたいのに恵まれたり、出版活動は頻繁だしとまぁそれでもいいじゃないのと言いたい感じである。
そんな、自分の人生を語っているのだが、その中で作家には若くしてなるもんじゃないというような文言があった。

小説が好きな自分としては若くして作家になんて羨ましいことこの上ない、と思う。
しかし、著書で、人生活動が未熟なまま小説家になどなってしまうとどういうことが起こるかということをなんとなく皮肉たっぷりに語っている。つまり、生きて起こることすべてが作家の題材になってしまうリスクである。

たしかに、何がおこったとしてもこれをネタに書いてしまおう!などと思っていたら、その事象自体に深みは生まれないだろう。それはつまり、自分の人生を神の視点というか第三者の書き手のような視点ですごすことに他ならないからである。

例えば、早朝スーパーのバイトで店長に怒られるとする。そのストレスを普通人ならどうするだろうか?そう、妄想の中で店長を裸にしてギタギタに鞭でひっぱたいて、怒りをリカバリーするのである(ほんとか?)。

しかし、作家の場合はこの事象を書いてやろうという視点がそもそもだから、この怒られて自分が悪いにもかかわらずイライラする怒りは生まれてこない。怒りを生み出さずにただ、その手前でものを書くことのなんたる未熟なことだろうか…。

わからないが、そういうことを白石一文はいっているのだろうとうなずけた。
老成すれば老成するほど物書きはいい。そんなことを勝手に解釈しながら、まだまだ俺も小説家としてデビューできる可能性があるのではないか??と自問した次第である。まったくその努力はいまのところしていないにも関わらずである。