小山田圭吾が話題である。だいぶ前だが、それを読んだとき、とんでもなく衝撃を受けた。だから、自分のブログでもちょいと触れたりしている。


まず、何が衝撃って過去のいじめを楽しそうに語っている有名人なんてほぼみたことないからである。

逆は多い。過去にいじめられていた有名人。こんなにいるの?うっそぉ、というくらいいる。
そんで、逃げていいよ!などと綺麗ごとをいう(失礼)。

常々思っていたのは、有名人ってそれなりに個性があるから、子どもの時は目立つほうが多かったのではないかということ。
そんな目立つ子どもは、いじめの加害者である可能性も十分ある。
なのに、メディアに出回るのはいじめられていた被害者ばかり。うっそぉと思っていた。
少なくても、いじめられもしたが、いじめてたこともある、という人は普通にいると思う。

そんな中で、この小山田圭吾の記事をみた。時代を感じるような古い時代の記事である。かなり胸糞悪くなった。
しかし、ここには加害者の真実が余すことなく現れていた。加害者は過去を反省しないのである。起こった出来事は、ただのイベントなのである。

胸糞わるかったのだが、これはすさまじいなと思った。
正直なのだ。
こういった記事が普通に掲載されていたのは、時代背景が一番大きいだろう。コンプライアンスはなく、パワハラ的なお笑いも許容されていた時代。

今回は、オリンピックの音楽に小山田圭吾が選ばれたことで、これがクローズアップされたのだろう。
気の毒とは思わないけど、これはどうにもならないと思うなぁ。

いじめの加害者は結局こういうものだ、と考えるいい材料になりえるが、それでもそのころのことはやっぱり反省しているだろうし、ここにきてこの過去の記事をもって批判するのはちがうような気もする。

繰り返すが、いじめ加害者の有名人は多いと思う。それを正直に言っちゃったのが小山田圭吾なだけである。まぁ、クズだとは思うけど。なにより音楽に興味ないからなぁ…。

こういったテーマで大事なのは、将来のいじめ加害者がいじめることは割に合わないと思うことである。そのいい題材にはなるのかなぁ。よく考えたら、教科書に載せたいくらいいい題材になると思うなぁ俺は。小山田圭吾に了解を経て、いじめる側の人間の心理を理解する学習にぜひ…。

ただ叩くだけでは、個人攻撃になるし意味がないよね。せめて題材にして、将来に役立ててもらった方がよいなぁ。オリンピックで演奏される小山田圭吾の音楽を音楽の教科書に載せつつ、このいじめ加害者のインタビューを道徳や社会科の教科書に載せる。いろんな意味で意義があるかもしらんね。