コミュ力といえば、人と円滑に話してよい関係を築く能力である。これが高い人が世間にはいる。男性でも結構多い。

10年前くらいに、一か月間フィリピンに語学留学に行ったのだが、若い男の子で誰かまわず話しかけ、それでいて誰からも好かれるコミュ力の化け物のような人がいた。娘と参加していた親子にもいやらしくなく話しかけて、うまく談笑していたのにはびっくりした。

早朝のバイト先でも、やたらコミュ力が高い男の子がいる。彼も、自然体でいろいろな人に話しかけて関係を築いている。

彼らをみてると、どうやら自然体である。気張っていないのだ。それでいて、さほど面白い凝ったことを言っていない。ちょっとした、時事や凡庸なやりとりをしつつ、ちょっとしたユーモアのスパイスを入れているだけである。

まったくコミュ力がない俺にすら、ふところに入ってくる。また、話しやすいんだよね彼ら。

さて、現代は特にコミュ力がない人に厳しい時代だといわれている。独身40代以降で、さほど地位もお金もなく、友達もいない人は悲惨だという記事も見かける。俺だって、運よく結婚できただけで、独身だったらひどいことになっていただろう。

かつて、「寡黙」であることはそこまで悪いことではなかった。職人的な仕事があり、お見合いで出会って結婚。ひたすら仕事に打ち込み、子供が成長し、仕事を引退し、妻に小言を言いながら老い、そして鬼籍に入る。これがスタンダードであったとすらいえる。

そこにおいて、やたらベラベラしゃべくる男は、なんか詐欺師のような扱いをされていた。

しかし、今の社会はそうではない。職人といえば聞こえはいいが、それが機械的な仕事の場合は、文字通り機械やAIにとってかわられ仕事を奪われる。そうなると雇用が不安定で、稼ぎが少ないゆえに、お見合いもできない。

お見合いなんて、結婚相談所も含め、基本的な稼ぎがあって初めてスタートラインに立てる。そうなると、フリーの恋愛市場という荒野にいくしかない。そこは、まさにコミュ力がすべてである。あれよあれよといううちに、年食ってしまったとしたら、独身、稼ぎが少なくコミュ力がない男という感じで、市場でもっとも嫌われる人になってしまう。

若いうちは寡黙でもルックスが良ければいい。が、40代すぎると、竹ノ内豊くらいのルックスがないかぎり、かなりキツイ。耳毛がはえてるなんてもってのほかだが、誰も指摘してくれないから、耳毛の処理もできやしない。

俺も、独身以外はアラフィフだし稼ぎが少ないしで、けっこう当てはまるので恐ろしい。
なんだかんだ、性格を変えるのは大変だ。家庭をもっているという保険のようなバックボーンがあるのに、やはりコミュ力をあげるのは難しいと感じている。これは、資質というかそんな変え難いなにかなんだろうな。一瞬コミュ力を気合であげられても、疲れちゃうのよ。

自分を分析するに、人目が気になるということに尽きる気がするな。
これを言ったら…といちいち考える。
みみっちい人間だなぁと思うけど、しょうがないんだよなぁ。
最近は自分を変えたいなどと思わない代わりに、このみみっちさを人に知ってもらいたいと考えるようになってきた。逆にこれは新しいスタイルのコミュニケーションではないか?

山本周五郎の小説であった。
壮烈であろうとするよりも、弱さを恥じぬ時ほど人は強いものだ
この言葉のごとく生きてみたいと思っている。