娘はいわゆる場面緘黙症である。いわゆる…といっても知っている人はどれだけいるのだろうか?という感じであるが。

簡単にいえば、学校などの集団ではまったく喋れなくなってしまう症状である。
うちもそうなのよ!という親は多いかもしれないが、甘い甘い…程度が半端じゃない。
「まったく」というところがポイントである。

恥ずかしがって、もじもじして一言二言しか話せない…というのは断然違うのである。
学校なら国語の授業があるでしょう。前の人から一行ずつ読んでいく、なんてのがある。
こういうものは一切できない。

休み時間に友達が話しかけてきても、ぶすっと黙っている(不機嫌なわけではなく緊張している)。

たしかに幼稚園時代から、あまり喋るタイプではなかったが、友達もいたし喋っていたはず。
それが、小学校にあがるやいなや、コレを発症したらしい。

らしい…というのは、その当時は気づかなかったからである。

緘黙症の多くの子が、親や兄弟、祖父母などの近しい人々には問題なく喋るのである。
うちの娘の場合は、喋るどころかモノすっごい積極的に笑いをとりにくるヒョウキン娘である、家では。それがひとたび学校や、習い事など一定の集団がいるところにまぎれると、まったく喋れない。

親にとっては学校をリアルにのぞく機会は少ない。なので、悪気はないのだが、気づかないのである。
だから、かつてはよく聞いていた。「今日、誰と遊んだ?」とか。
今思えば、その返答はもうひとつはっきりしなかったのだが、その時は気づかない。

場面緘黙が分かって、いろいろな本を読んだ。
本人の話も総合すると、場面緘黙症の子供は、喋っているところを「人に見られる」のが恐怖であるらしい。
俄かには分かりづらいが、恥ずかしいとかではなく、話すという行為を見られる「恐怖」があるらしいのである。

今は、検査も受けて、学校内のグレーゾーンの子を支援する教室に週一で通い、トレーニングをしてもらっている。しかし、なかなか成果はでない。

おそらく緘黙の子は皆そうであろうと思うが、娘も友達がほぼ一人もいない。
小学校生活中盤を迎えての友人ゼロである。

考えてみれば当たり前であろう。話しかけても、じっと黙っている子と誰が友達になり得ようか。
大人でも難しい。コミュニケーションが取れないのだからね。

なにか緘黙になるきっかけがあったのかといっても、思い当たらない。
いつ終わるのかもわからない。
始まりも終わりも不明瞭というのが、この場面緘黙症の恐ろしいところである。
原因も解決法もないのだから、親も子もどうしていいかわからんのである。

比較的大人になると治るようなこともいわれているのだが、それまで友人ゼロで学校生活を過ごすのだろうか…。親からするととても不憫である。

学校なんて、友達作るために行くようなところがある。
友達100人できるかな!という歌が今となっては、恨めしいことこの上なし…
友達1人でもできれば上出来かな! に歌詞を変えてやりたい!(中盤スキャット)

休み時間にじっと黙って一人で机に座る娘…。
想像するだに胸が痛い。しかし、なってしまったものはしょうがない。

友達が欲しいという思いを抱きつつ、話せないからしょうがいないという諦念すらいだきつつある娘…。
それでも、学校に行かないという発想はないらしく、頑張っている。

話せないストレスを運動にぶつける娘。そんでもって、連続空中逆上がりなんかをマスターしてしまってグルんグルん鉄棒を回る娘…。

そんな姿をみて、最近では、ふと思うことがある。
この娘はメンタルが無茶苦茶タフなのではないだろうか…?と。
俺ならこんな症状になったら心が折れてしまう。
それを耐え抜き、しかも運動に転化しめきめきと能力を高めている。
寡黙な職人を思わせる風情すらある。

緘黙というもの知り、世の中を見渡すと、社会って言葉のコミュニケーションでほぼ成り立っている。議論だわ、会議だわ、世間話だわ、申し送り事項だわトーク番組だわ。当たり前だが言語が使えないって、かなり不利である。J~2までのカードを奪われて大富豪を戦うようなものである(?)。

そんな大海原に、武器を持たず小舟でボディバランスのみでさすらっている娘。
親としては、コントロールを失いそうになったら、ふーっと息を吹きかけてやることくらいしかできない。
でも、それで十分だと思う。変にプレッシャーを与えず、生きていくチャレンジを見守りたい。