昔はゲームなんてそんなにしなかった。今は、親が甘やかしすぎだなんていうひといるじゃない。
でも、昔ってファミコン時代だろうけど、もうクソゲーだらけでそもそもハマること自体が困難なんだよ!
俺がかつて誕生日に買ってもらった「怒」という二人のマッチョが戦場を駆け抜ける縦スクロールのゲームがある。
ファミコン通信などを読み込んで、選び抜いたゲームである。
ド派手なアクションが特徴で、手りゅう弾をどかんと投げたり、デカい戦車に乗り込んだりと、原始版フォートナイトのようなものである。
んが、途中まで行くとどう考えても、倒せない敵がでてくる。激むず過ぎるのである。
クソゲーのポイントとしてゲームの中身云々より、とにかく難易度が高すぎるというのがある。このゲームはまさに、それであった。
そしてセーブという夢のような機能がない。そんな時代である。
結局腕を上げ続けて、ある程度まで行ったが全クリはできずに、棚の奥底にお眠りした。
かつてはこういうゲームが山ほどあった。
とてもじゃないが、一日中ハマれるようなゲーム性はあろうはずがない。ドラクエが流行るまでは、もう1,2時間頑張ればギブアップなのである。
なので、ゲームをしばらくやったら、友達と外に遊びに行く。
別に健全なのではない。意識して外に行っているのでもない。長時間プレイできるゲームなんてないのである。
翻って現代。オンラインでつながるは、絶妙にクリアできるゲーム性。感動的なストーリー展開と、進化が半端ではない。
昭和の時代に、このクオリティがあったらどうだろうか。誰も、外で草野球なんてやらなくなるっさ。
何が言いたいかといえば、物事を単純に比較したって意味ないってこと。
不登校もそう。そもそも選択肢ないもんね。
時代性といえば、それもチープだがそうなのである。
野波アサの「地のはてから」を読み始めている。北海道開拓の時代にほんろうされた家族の姿に驚く。
北海道という地も、誰かが開拓したからあんなに住みよくなっているのである。
その時代と歴史に生きる意味。いま、自分がいる時代も過ぎ去れば後塵のようなものであるが、大いなるうねりの中で新しい価値観が作られているのであろう。
いま気付いたが文章って難しい感じを書くだけで、酔えるのね。意味は不明でも…。