R太のざっくり雑記

40代おじさんです。ベトナム出張がブログの書き始め。現在は、育児や料理、英語など興味のあることをざっくり備忘録として記してます。質はともあれ、なるべく頻繁に更新します!

育児

息子が太り気味である

昨年度の夏を境に息子がかなり太った。腹回りが、中高年である。あごも二重顎。
それもそのはず、最近食欲あんなぁとは思っていたが、本当によく食べる。
朝食からお代わり連発。回転ずしにいっても、手数が多く、勢いよく食べている。

幼稚園の時などは、食が細く全然食べず痩せていた。
食べないで痩せていると、親はとても心配する。不健康そうで、病弱そうだからだ。
しかし、そんなのも今は昔…。
いまや、食べ過ぎを心配している。

いやはや、ダンスは週一で通っているのだが、それ以外はあまり動かない。
お菓子をよく食べる。動かずに食べればやっぱり太るんだよなぁ。

妻はかなり心配している。

豊川悦司やイエモンの吉井さんは、小学生時代すごい太っていたらしい。
それを考えて、俺は、いや無理に痩せなくてもいいんじゃない、というスタンスであった。
しかし、近頃の腹回りを見るとやや不安になりつつある。

どう考えても、デブはモテない。
なんだかんだ、若い時の自己肯定感を育むのは親以外では、異性にもてることと思っている。
いや、異性にさえモテればあとはどうでもいい、くらい思っている。
それを考えると、マズい状況といえる。

まぁ、太ってもタテに伸びればいんじゃない…と思っていたが、先日の健康診断の結果を見て愕然。
太った時期の半年で1cmしか伸びていない。
逆に成長を脂肪が阻害してんじゃないか!?と思うくらい。

しかしながら、痩せてても心配するし、太っても心配する。
親という稼業はいったいなんだろうか。
そこにたまに定期的に訪れる、まぁ、元気に生きてさえいればいいよ子供なんてという楽観主義。
そして、まためぐる心配のサイクル。

自分も親によく心配されてずいぶん重荷だったなぁと思うけど。
親というのは因果な役割である。

娘は尊いのではないかと思う

娘が可愛い、というのは父親の共通認識であると思っていいのだろうか?よく聞くので。
よくいうのは、女の子の可愛さは別格であると。

自分も娘がいる。やや、やんちゃというか構って攻撃が強すぎて、たまに怒ってしまうこともある。
逆に怒られることもよくある。
怒って、体を叩かれるのだが、娘は体を動かすことが大好きで、空中逆上がりもグルんグルん回るので、筋力があって力が強い。
尻をひっぱたかれても普通の子どもより強烈なインパクトがある。
とっても、いったいんだもん…。
そんなやりとりを日常でしつつ、娘という存在の可愛さについて思っていた。

そんなある日、仕事帰りに駅前を家路に向かって歩いていた。
少し先に、小学生(10才くらい?)の女の子と父親らしきおっさんが手をつないで歩いている。
自分が言うのもなんであるが、結構禿げてるおっさんで、まぁ自分がいうのもなんであるが汚いおっさんである。

ここで、天啓のように閃いたのが娘の尊さである。
自分も、正直汚いおっさんである。年々抵抗していも、もはや完成形に近づいている。
ひげも汚いし、なんか顔にシミも出てきている。
こんなおっさんでも、娘だけは手をつないでくれるし、抱っこをせがんでくれる。
おっさんにとって、これほどの自己肯定感はあるだろうか?

前を歩くおっさんだって、はっきりいって過去はどうであれ、いまは女性に見向きもされないルックスだろう(ごめんなさい)。
でも、娘だけはしっかりと手を握ってくれるし、全身を使って父親大好きを表現してくれる。

娘はかわいいのではなく、むしろ、娘は「尊い」のである。
これが自分の結論である。

この娘にいずれ、必ず生理的に毛嫌いされる日が来る。
それも、含めて娘は尊い…のではないだろうか。
しかし、いやだなぁ嫌われるのと思いつつ、この時間を大切に生きようと思う。

子供とお出かけの三種の神器


少し大きくなったので、子どもと出かけるときにたくさんものを持っていかないくてもよくなった。
本当に小さい頃は、ベビーカーにバッグをぶら下げて、それが子供の重さと対になるくらい重量の荷物であった(何が入っていたんだ)

とはいえ、今でもこれは必須というものが3つある。
一つは、絆創膏。
子供というのはやたら、転んだり擦り傷を作ったりする。そんな時に絆創膏がないとパニックを起こしてしまう。絆創膏の効果は置いといて、怪我したところが癒されているという安心の意識が大事なのである。

二つ目は、飴だ。
普通に電車で暇しているときなどに、子どもにあげたりしてもいい。うちは兄と妹の喧嘩がひどい。たとえば娘が大泣きしたとき。そっと、娘だけに飴ちゃんを二個握らせる。これで、修羅場はたいてい収まる(?)。飴の甘さがストレスを和らげる効果があるのかもしれないね。

三つめはトイレットペーパーである。
これは絶対必須!ポケットティッシュでは間に合わない時が多々ある。
子供の鼻血である。これもまた娘であるが、最近は少し減ったがえらい鼻血が多い。鼻血はポケットティッシュではとてもとり切れない。しかも、子ども+血のインパクトって結構あるから何?っと注目を浴びてしまう。

そんな時のトイペ。
いくら使っても大丈夫。紙の長さが心の余裕につながる。ということで、この三つ、とくにトイペは欠かさずいつも持っている。

テクノロジーが発達する世の中であるが、なんだかんだこのアナログの道具。
アプリで鼻血はふけない。
スマホですり傷は癒えない。
未来的にはスマホから、いろいろな物理的な物がいっぱい出てくるのかもしれないが…。

七五三の撮影

娘の七歳に合わせ七五三撮影をしてきた。
あまり親などが集まれないので本格的な七五三はせずに、とりあえずこの瞬間を残すために撮影のみ。

洋装・和装の二種類で華麗に撮影。記念の撮影はスタジオアリスだったかな?娘が3歳くらいの時にやって以来。
表情が大人っぽくて、びっくり。
4年でずいぶん変わるもんだなぁと感心。

兄貴はハーフ成人でついでに撮影。
兄の方はもはや、こういうコスプレみたいの着てノリよく撮影できるのは、最後かもしれない。
あと2、3年もすれば、もう中学生である。

とりあえず、兄も和装と洋装でいろいろな表情で撮影した。
夏休みですっかり体重が増量した男。和装なんてきたら恰幅のいい演歌歌手である。
貫禄がつきすぎてヤヴァイ。
IMG_8534

兄妹で仲良く撮影して、良い写真がいっぱいとれた。

写真スタジオって結構高額だけど、それも仕方ないよね。
実際、スマホのせいで写真を取るって行為は誰でもできるものに。

それでいて、高画質だし、それなりのクオリティで撮れてしまう。
写真館でわざわざ撮影しよう、という人もどんどん減ってきていると思う。
それでも、プロのところにお願いするとやっぱり衣装も含めて、自分たちではできないようなクオリティの写真になるのよね。

どれもいい写真だから、スマホの壁紙などに設定している。
成長を感じられるのは親の喜びだなやっぱ。

ハーフ成人式

息子さんが10歳を迎えた。ちょっと前は、10歳はハーフ成人式とかいって盛大に祝っていたな。
でも、いまや18歳が成人である。となると9歳がハーフか…と。
なんか中途半端だな。やっぱ感慨深いのは10歳である。

まるまる10年生き抜いてきたのである。今もだけど、いろいろあったなぁと思わざるを得ない。
よくぞ健康に生きてきてくれた、親が思うのはシンプルにはそんなことである。

と感慨にふける暇もなく、息子が友人を8人くらい呼び込んで誕生会を開きやがった。
休日である。
妻はあいにく仕事である。これをアテンドするのは俺である。
自慢じゃないが、まったく小学生に慣れていない。
しぶしぶ買って出たのだが、次から次に子供がきて、みなそれぞれ遊ぶ。

しょっぱなからカオス状態。

だいたい、8人以上を収容できるリビングではないからなんか大変。
途中まで、誕生会というかストリートで戯れる子どもたちになってる。

これはいかんと、予約していたピザの到来を告げる。
各々椅子について食べたり飲んだり。

そこで、おなじみのクラッカー。
おなじみの「人に向けないでね~」という俺のセリフ。
そして、警告を無視して人に向けてパンパンやる子どもたち。
これもお馴染み。

そんなこんなで、ピザからのメイン。

サーティーワンアイスクリームのスプラトゥーンアイスケーキ。
IMG_8298
こちらを、8等分するという難易度の高い業務をこなす俺。

お目当てのアイスにありつけず、不満を漏らす子どもを華麗にスルーして、
なんとかバースデーの歌も終わり。
息子も子どもたちもなんとか満足したもよう。

どうでもいいけど、アテンドする人って大変…。しかも子供って予想外だしキッツイ。

とはいえ、自分の子どもの誕生日を祝うためにこれだけの友人が集まってくれるなんて、幸せものだなぁと思った次第。
家では無茶苦茶だけど、外では意外とナイスガイなことを俺は知っている。
だからこそのこの好かれっぷりだろう。

この調子であと10年、いってほしいなぁ。

秋を虫で知る

蝉の声が聞こえなくなってきた。
しかし、残暑というか暑さはまだ残る。

公園に行くと、蝶々とともにトンボが沢山飛来していた。

100円ショップで買った虫取り網をもって、娘がいざ走り回る。
蝶々と違って、トンボは取りにくいと初めて知った。
なかなか、一カ所にとまらない。

それでも、娘は持ち前のフットワークで駆け回り、捕獲。
結局、5匹くらいとった。
IMG_8003

しかし、まじかで見るとトンボの顔ってTHE・昆虫って感じ。
仮面ライダーってここから来たんだっけ。
あのフォルム考えた人、なんでこれにしたんだろうか。

トンボ、バッタ、蝶々。

虫取りにハマっていた娘だが、さて来年は虫取りなんかやるのだろうか。
子どもの成長は早い、季節単位でみたらあとどのくらいこうやって一緒に行動できるのだろうか。

何気ない時間にちょっとした憂いを感じる。
これも秋のもたらすものであろう。

いや、それはそうと、もうそろそろ帰っていいですか…。かれこれ公園で、3時間…であった。

子育てのアップデートが必要

しつけやマナーって日本人は好きである。相手の迷惑にならないことを、とかやってもらったらお礼を言う、とかである。家庭内のしつけはとりわけ大事といわれている。

うちも妻がよく、飲み物をとってもらった時、お礼は!といって、ありがとうを強要している。強要というとあれだけど、まぁ、本人がやらないことをさせるのは、広い意味では強要であろう。指摘されて、「ありがとう」と言うことになんの意味があるのだろうか、と密かに思ってしまう。

心から思ったら言葉に出す、というのが基本だろう。まぁ、きれいごとであるが…。

俺の場合はひどいもんである。父親の威厳などが基本的にないので、なにをやってもお礼を言われないし、当たり前のようにジュース取ってとか言われる様である。あまり、それに対して何も言わない。

確かに疲れているときは、たまにイラっとくるのだが、こちらもこちらで基本テーマがある。家庭は、「くつろぎの場」ということである。もう、何をやっても基本はいいということである。言葉遣いとかも適当でいい。そういった心許せるホームがあるからこそ、外ではきちっとできるのでは?と思っている。

関係ないかもしれないが、自分の仲で「抱っこ理論」(てきとうにつけた)というのがある。ある程度大きくなったのに、相変わらず抱っこをせがむ子ども。かつては、こう考えられていた。抱っこをしてしまうから、それが癖になっていつまでもせがみ続ける。つまり、悪い癖を親がつけてしまっている、と。

しかし、最新の脳科学だとこれは違うらしい。

抱っこをその子がしてほしいなら、何回でも何歳になってもしてやるといい。そうすることによって、コップに水が満たされるように、ふとある時点でせがまなくなる。つまり、満たされてしまうのである。それ以降はまったく興味がなくなる。これがいわゆる「自立」である。

コップを満たさないまま、だとどうなるか。

あの時満たされなかった、という思いがずっと残ってしまうのである。未練ともでもいうかなんというか。
これと同じことはいろいろなところでいえる。とにかく、子どもの望みは一部を除いて(お金がかかること)、すべてやってやるくらいの気概が必要である。

まぁ何が言いたいかといえば、こうである。日本のいままでのマナーとかって、もしかしてクソではないかということである。今の時代からみると…である。その時代はいい。子供が多く、全体をなんとかまとめなくてはならない。子供が5人もいるのにいちいち抱っこしてらんない!なんてのもあるだろう。
しかし、今はそうではない。アップデートが必要なのだ。

我々が受けてきたマナー教育やその他。それをさらに次世代につなげてどうするのか?この生きにくい社会を作っているマナー教育である。相変わらず、しつけやマナーに賛同している人たちはどうかしている。

子育ても、もうびっくりするような革命のようなアップデートが必要だと思う。似たような生きにくい子供を作らないように。ありがとういえるかどうかなんて、短期的にはどうでもよいでしょ。実際。と思っているのだが。
何をやっても、いいというような子育てのマナー。いや、それヤバイでしょ、と思われるほうが、実は正しいのかもしれないと最近疑っている。

子どものダンス発表会が面白い

子どもの発表会といえば、ピアノがポピュラーだろうか。娘がやっているので、行ったことがある。正直自分の子ども以外は、見てるのが苦痛であった。延々と子どものピアノを聞かされる大変さタルヤ。

もちろん、駄目ということではない。子どもの発表会というのは、概してそういうものである。親が子供をみるために行く。いわば我が子を愛でる会である。

さて、息子も娘も水泳をやめてから、ダンスを習い始めた。
そして、先日息子のダンス発表会が近くの公会堂で開催された。20組がでて2時間ほど。息子は10番目である。結論から言えば、無茶無茶楽しかった。

いろいろな子ども関係のイベントに出てきたが、ダンスイベントは群を抜いてエンタメクオリティが高かった。照明などの演出や、選曲、振付など、先生たちが苦労して楽しいイベントにしようというのが伝わってきた。

もちろん、自分の子どもが出ている会がマックスの見どころだが、ほかの子たちもものすごく見れちゃう。変なプリキュアとかのアニソンとか、流行りのJPOPなどを使ってないのがまたいい。海外のゴリゴリのダンスミュージックである。

孫の晴れ姿とあって祖父母も2年ぶりくらいに公のイベントに参加。かなりご満悦の様子だった。ダンスがもつ特殊性が影響しているのかもしれないが、子どものイベントを大人が耐えうるものにするってすごいことである。

また次も観たい…、と思わせたこのイベント。
ダンスはエンタメ能力を鍛えるのにいいかもしれないね。

無償の愛は取引をしない!

またまた、ちょっと前に再読しはじめた「子どもを信じること」から面白い部分があった!子どもへ、ご褒美をあげるとき、どうしているだろうか?たいていは、何かがあってのご褒美だろう。テストでいい点をとっただとか、お手伝いをしたとか。

だが、著者の田中さんは言う。それは取引であろうと。何もないのに、ふらっとなんか買ってあげたりどっか連れてあげるといい、というのだ。これは、ビックリである。

誕生日でもなく、なにかいいことしたでもなく、なんでもないのにいいことがある。よく考えたら、たしかにこれはとてつもなく嬉しい。いいの!?ってテンション爆上がりである。

こういう、取引をしない施しをなんというのだろうか…なんか聞いたことがある。そう、愛である。

これが、子どもにとって良い効果をもたらすらしい。かつてこれを読んで、とても衝撃を受けた記憶がある。それ以来、ちょくちょく無償の愛を施そうと思っているが、なかなか。誕生日まだでしょ!とか宿題したら、とか取引をしてしまうんだよねぇ。

最近見た記事に、子どもがポイントをためてそれを「学校を休む」という選択肢にも使えるというものがあった。学校を休むことを子供に与える親、なかなか画期的!というのが大方の筋であろう。しかし、先の著書からすると、もはやいいことをしてポイントを貯めさせること自体、取引なのだ。

子どもを信じる悟りを開いた親は、いやもうポイントとかなんとか、そんなもんいらねぇよ、と。休みたいなら休めよ、となる。無償の愛である。

ここで気付く、ネグレクトと無償の愛、この境目の難しさたるや…。結局親がこどもをどれだけ考えているかが、その違いなのかもしれないけどね。

子どもは、自らの手で自分の人生を豊かにしたいと思っている

子どもが幼児のころは、小学生くらいに育ったら、子育てがさぞ楽になるだろうなぁと思っていた。しかし、実際に育った子をもつ親たちは、いやその年代年代で大変なのよ、と言っていた。

最近は、この当時は理解できなかった先人の言っている意味が理解できる。不登校気味になったり、ゲーム中毒気味になったり、かたや家ではすごいおしゃべりだが、学校ではまったく沈黙しちゃったり。いろいろな心配が頭をもたげる昨今である。

そこで自分の子育てのバイブル書 田中 茂樹「子どもを信じること」を読み返した。
やはり、いろいろな育児書を読んできたがこの人のが一番面白く、勇気づけられる。なかでも、子どもの誇りについての章は秀逸で、目から鱗なのだ。

子どもは一人の人間として誇りをもって生きている、というシンプルな真理だ。それが親の目からしたら破滅に向かっているように見えるから不思議である。例えば危ないことも、なんでもしたがるのだが、早くこれをマスターして一人前になりたいからやっているのだ。少なくとも純粋な子ども時代に自虐願望や自殺願望はない。つねに、向上心をもって物事に取り組んでいるのだ。それが短期的には親にとってとても見てられないものであることは多いので、つい小言を言ってしまうのである。

俺は今、禁酒まではいかないが自分で酒を買うことを断っている。依存体質があるし、二日酔い体質でもあるので、いいことはないと思ったからである。なので、かなり最近は健康的な生活である。こういった生活改善も基本的には、自分に誇りをもっていて、もっとよりよく人生を生きたいと思っているからである。

子どもも大人も人間である限りは、そのような誇りと自ら楽しくいきたいという願望がある。そうじて、幸せになりたいと思っているとでもいうか。

この本は、そう思っている子供を信じるということに焦点が充てられている。この本を読むと、なんと自分は子供を信じていないのだろうか…と目から鱗が落ちる。しかし、たいていの落ちた鱗は、数日もたたないうちにどこかへいってしまうのである。とはいえ、こういった自分の心に響いた本は、大事にしたいと思う。ちなみに、子育て本はたくさん読んだが、響いた本は「子どもを信じること」と「父親になる、父親をする」の2冊のみである。あとは、まぁ似たり寄ったりだった気がするな。

個人的に、こういった育児書の役割は具体的な方法を教わるとか、画期的な行動を変えるきっかけ、とかではなく、安心感をくれることにある。実生活では、思ったようにいかないことが多く孤独に陥ることもあるが、いや、間違ってないよと優しい言葉をかけてくれるのが育児書の良書だ。そういう意味では、この二冊は自分のシチュエーションにあった優しさを持ち合わせていたといえる。

子どもを信じること
田中 茂樹
さいはて社
2019-04-10



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