R太のざっくり雑記

40代おじさんです。ベトナム出張がブログの書き始め。現在は、育児や料理、英語など興味のあることをざっくり備忘録として記してます。質はともあれ、なるべく頻繁に更新します!

雑感

論客のモテっぷりたるや…

いやしかし、宮台真司のもてっぷりたるや恐るべしである。
64歳で20歳の女子学生と逢瀬を重ねたという。
この年齢だったら、性犯罪がせきの山である。それが、自由恋愛に基づいてガッツリやってやがる。
羨ましい…いや、けしからん!!

だって、容姿だってたいしたことないじゃない。
なんだか、ふき取ったあとのティッシュみたいなしょぼくれた顔じゃないだろうか(失礼)。
しかし、ディベートになると圧倒的な強さとカリスマ性。
それでいて、たぶんだけど少年のようなナイーブさもじいさんの癖に持ち合わせているとみた。

じゃないと女子学生は無理だろう…。
監督や芸人による性加害問題が巷をにぎわせている昨今。
同意の上での恋愛みたいな感じになっているのが、すごすぎる。
そんなに、弁がたつってモテんのだろうか。
いやモテるんだろう。言葉というのは魔法みたいなもんだ。
五感で最後まで残るのは耳だ。
死ぬ間際まで、耳に残るのは言葉だ。
やはり言葉の使い手は、最強なのだろう。
羨ましさ通りこして、宮台真司になんだか、ありがとうといいたい。
まぁ、妻子もいる身で少し気持ち悪いけどねやっぱ。

小言をやめたいな

小言ってなんだろうなぁ、と。
主に子供に言うのだけど、このままじゃだめだよ、とか。
ちゃんと勉強しないと、将来 ああだこうだとか。

冷静に考えてもそんな先のこと分かるはずないのになぁ。
大人の小言って嫌だからね。
でも、子どもを見てると言いたくなっちゃう。

アドバイスなのかなんなのか。
たぶん、なにかあったときに「ほら、あの時俺がいったじゃないか」と言いたいための自己満足なんじゃないのかな。

ちっちゃいなぁ。
小言の代わりに大言を言ってみようかな。
勉強なんかしなくても、生きてればいいじゃない。
とか、
夜中にカップ麺、おいしそうだな。とか。
なんか、あれっ思うようなことをこの一週間言ってみようかな。
一週間言ったところで、まずいことにはならんだろう。

よし決めた、小言をやめて意外性のある大言を子供に投げかけ続けてみよう。

一か月以上ブログを放置

まぁたいして誰もみてないのだが、一か月以上放置したのは久々かなぁ。
理由は多忙によるものである。
何気に仕事の合間に書いたりしてるので、仕事が忙しかったのだろう。

実際にブログを書く時間までないのか、と言われれば否であるが、
気持ち的に余裕がないと人間は、あるはずの余白も見えなくなってしまうのである。
11月後半からちょっと忙しかったなぁ。

今はずいぶん余裕がある。凪のような状態である。
年末は読んだ本をまとめて今年一番良かった本を選ぶのだが、
今年は、そんなことせずとも、凪良 ゆうの「汝、星のごとく」であろう。
いや、これはマジでよかった。

その後著者が、どうやら児童養護施設で育ったという、過酷な生い立ちの人で二度ビックリである。
体験から紡ぎだされる強烈な和音。削って磨いてきたストーリーテリング。
なにか鬼気迫るものを感じさせる。

とはいえ、過酷な経験をすれば、才能が開花するかといえば自分の経験上、否である。
なにか、そんな気がしてしまうだけである。
そこに、血のにじむような努力が加わらんといかん。

自分もかつて、執筆にいそしんだことがある。(いや、ちょっとだけね)
やや過酷だった原体験をもとに書いてやろうと目論んだが、もともと飽き性だからか
まったく続かなかった…。

とはいえ、夢は海外や自然の多いへき地で、小説やエッセイを書いて暮らすことである。
なんかいい手はないかなぁ。

学校に行かなくてもいい 逃げてもいい

夏休みの終わりに、有名人などによって啓発される記事が目に付く。
学校に行かなくてもいい。概ねそんなような記事である。
これには理由がある。

日本の自殺者数は、一時期に比べて減退している。
ところが小中学校を含む若年層は、その割合を高めているのだという。
不登校になる子供の割合も、昔に比べると格段に高い。
学校に行けない、行きたくない自分を苦しめて、自死してしまうくらいなら、
そんなもの捨ててもよい。専門家や有名人がこの時期そうやって呼びかける。

影響力がある人が言うそのような記事は、果たして効果があるのだろうか…。
難しい所である。

嫌な言い方をしてしまう。
たとえばである。
過酷な不妊治療の末、子どもを授かった人と、同じような治療の末、諦めた人。
同じような体験を語ったとしても、そこには厳然たる差がある。
子がいるか、いないか である。

子がいる人の語る不妊治療の苦しみが、果たして現在苦しんでいる人に響くだろうか。
何でもそうであるが、抜け出た人はある意味の勝者である。意図せずに強者になってしまう。
そこからのアプローチは、あきらめなければ道はあるというアプローチである。
なぜかって、自分が子を持ちながら、夫婦二人の生活も楽しいよ!とは言えないからである。

かたや、治療を諦めた人が語る経験談は、壮絶である。その先に、絶望があるからである。
不妊治療中の人の希望は唯一、子を授かることである。
そんな絶望は見たくないのである。

結果どちらの経験談も、響くことがないまたは、自分事にできないのである。

どこまでいっても、自分を救うのは「今現在、自分と同じ立場で苦しみを味わっている人」なのかもしれない。
ある種の傷の舐めあいこそが、唯一苦しんでいる人を救うのだろう。

過去にそうだった人が語る経験談は、一定の面白さがありコンテンツとしていい。
ただ、その向けたターゲット層には届かないかもしれない。
不登校になる怖さは、タイムリーなものである。
刻一刻と落ちこぼれていく怖さ。
親にとっては、我が子がどんどん引きこもりに近づいていく恐怖。

こういうタイムリーの怖さを緩和することはできない。
ただこの恐怖を味わうことで、将来の自分は人の痛みがわかる人間になるだろう。
無駄ではない。恐怖を恐怖そのものとして味わい、一日を死なずに生きる。
それしかない。
「わたしは傷を持っている。 でもその傷のところから、 あなたのやさしさがしみてくる。」
星野富弘の詩である。

傷をもっているからこそ、人のやさしさが感じられる。名言である。
死なない程度に傷つき、そこから立ち直ること。
きっとそれができる、と信じて今の苦しさに耐えるしかないのであろう。
そこに同じような仲間がいれば、心強い。

おっさんがプログラミングを学ぶのは無駄である

かれこれ5年以上python というプログラミング言語を学んだ。
独学でうんたらという外国の人が書いた本を皮切りに、いろんなpython本を買った。
しまいには、ラズベリーパイというpythonで書いて、ロボットを作るみたいな
なんかワクワクしてしまう機材もそろえて、学んだ。

プログラミングを学んでいる俺という欲求は結果的に満たされた。
しかしChat Gptの登場である。
言わずと知れた生成AIである。
こいつが、アラフィフおっさんのpython熱を根こそぎ奪い去ってしまった。

Chat gptに「python じゃんけんゲーム」 と打ち込むだけで、その終焉は訪れた。
あんなに基礎講座に時間をかけたじゃんけんゲームのコードが一瞬で描かれた。
エラーで実行はされなかったが、恐る恐る「python テトリス」と打ち込んでみた。
どうだろう。すさまじい数量のコードが次々に。
AIがテトリスのコードを書いてんのよ。

これ、もうプログラマーいらなくね!?
こんな雑魚初学者ですらそう思ってしまったよ。

もうエンジニアの時代は終焉を迎えているという人もチラホラ。
そんな時代に、時間をかけてpython 学んでどうなるねん!?
何年も学んだし、書籍にそれなりに投資したから悔しいのだが、仕方ない。
意味のないものを古典的に楽しんだってしょうがない。

とはいえ、なにかを学ぶことは大事である。
ほかに何か学習するものはないか…。
pythonが消え去った向こうから、見えてきたものがある。
ワインの資格である。
いまの仕事で多少ワインを取り扱っている。
しかし、知識がまったくない。適当なことをいってごまかしているので、
しっかり学んだ方がよいと思った。

プログラミングからワインへ。
まったく異なるが、ちょっと面白いじゃない。
しかも、酒が弱い体質ときたものだ。ちょっとすぐとれるワイン資格を探すとするか!

ケチケチしないということの大事さ

どうも、けち臭い人間である。
もちろん、稼ぎが少ないというのがその根底にあるのだろう。
しかし、稼ぎが少なかろうが、けち臭くない人は多い。

とりわけ自分の場合は、お金に関してけち臭い。
節約とかをやたらと気にしてしまうところがある。
それが喜びであるならいいのだが、なんだかけち臭いのが嫌なんだよね。

恐らく育てられた環境に問題があるのかもしれない。
とくに母親がお金にうるさかった。

最近、でも金ってそういうもんじゃないだろう!という気になっている。
使ってなんぼだ。

朝バイトをする前は、自分の個人預金は10万円以下であった。
たまに、足りない時は物乞いのように妻に金をねだるという感じである。
家庭内ストリートチルドレン風おじさん という複雑な形態である。

それが嫌で朝バイトを始めた。
そしていまは数十万の預金がある。年齢にしてはすさまじく少ないのだが。
金がない時は、10万以上預金があれば嬉しかったさ。
でも実際に預金が増えれば、もっと預金額を増やしたがってしまう。
この貧乏人根性たるや。預金額が心の余裕になってるのか…この小心者めが。

今からこれをトレーニングで改めていこうと思う。

さっそく、トレーニングがやってきた。
家族の動画や画像を収めた外付けハードディスクが壊れた。
自分ではどうにもならなかったので、製造元の復旧センターに持ち込み
本日、見積もりが来た。

66,000円也。
物理障がい+論理障がいで結構なダメージだった模様。
普段の俺なら、スルーするかもしれない。
六万はきついと。

しかし、生まれ変わった俺は、思い出=プライスレス という思考回路で瞬時にOKで返信。
高い!と心が認識する前に、返信。

いやぁ、ちょっときついけど。まぁ、いいトレーニングになったわ。
これを機にドンドン出すとこには出す、というトレーニングをしてケチを潰していこう。
そう考えている今日この頃である。

ある人が言っていた。
人間は養うものをもつと、けち臭い人間にならずに済むという。
家族と犬。養うものだらけの俺がケチではいけないのだろう。

というか、確かに、独り身だったら金は自分の楽しみのためだけに使っているが、
犬までいちゃうとそうはいかない。
金と時間すべてを注ぎ込みつつ、たまにネットフリックスで恋愛リアリティショーを見る日々。
これが俺の人生である。

道端の花

たまに通る裏路地のような道にいつも手向けられていた花。その目線くらいの高さに、目撃情報を求める文が書いてあった。あるとき、じっくり読んでみた。どうやらそこで、大学生が車にはねられて亡くなったらしい。

加害者との間で争っているのか、父親が目撃情報を求めていた。
何年も前からこの文書はあったようで、裁判なりのやりとりの困難さが伺われる。どちらが悪かったのか、などが争点であろうか。

この前、また通りがかったら長らく掲示されていたその文書がなくなっており、代わりに紫陽花がその場所に植えられていた。
花を手向けるでもなく、そこで咲く紫陽花。争いはなくなったのだろうか…。一区切りしたのだろうか。紫陽花を眺めながらぼんやり思う。

職場の近くの交差点にも毎回手向けられていた花。パトカーが幼児をはねてしまった悲劇的な事故。
数年前だ。
その男の子はリュウソ―ジャーが好きだったようで、いつも離さずもっていたお気に入りのおもちゃだったようである。

親を失った子が辿る未来は、多種多様である。
多少か多大か、まぁいろいろな影響はあるだろうが、若さでもって未来を切り開いていける。

しかし、子供を失った親の辿る未来は一様である。常にその子を思いながら、つつましく暮らす。
ひと思いに後を追いたくもなるだろう。
しかし、愛するがゆえにそれもできない。
親が望むのはただ一つ。天寿を全うして、胸を張って亡き子供に再会することだ。
だから、死ぬことが怖くないのだという話を何度か聞いた。

子供を持つことの大変さは多岐にわたるが、この失う恐怖もその一つであろう。
手向けられた花、そこで何が起こったかを思い起こすたびに胸が痛む思いだ。

軽井沢で小説を書くのが夢である

最近は疲れやすく眠気がすごい。これは、更年期障害であろうか。
四十代前半は全然大丈夫だったけど、後半アラフィフにきてどうにもバテバテである。

経済的に許すなら、FIREしたいところである。
経済的に許すならという言葉は、宝くじで一億円あたったら…というのものと同意である。
早期リタイヤはあこがれるのだが、同時に引きこもり体質なので、それしちゃったら朝から酒を飲んでダラダラして、早死にするだろう。

ある種の人生のFIREである。

人生における夢はずばり、軽井沢で小説を書いて、スマッシュヒットを数本出すことである。
そうだな、馳星周みたいにハードボイルドからガラッとスタイルを変えて、犬の小説を書いて評価されるなんていい。

さながら俺なら、エロ小説で一世を風靡した後、ちょっとした忍者小説に転向して、最後は動物が出てくる小説を書いて、作家生活を終える。
こんな夢を見ているが、じゃあ今小説を書いているのか?
書いていない!と断言できる。

数年前は少し書いていた。もっと時をさかのぼると、結構頑張っていた。
仕事終わりに漫画喫茶やフレッシュネスバーガーに寄って、パソコンを開き…という感じで。

子供が生まれて、忙しくなってまったくやらなくなった。
それでいて、小説の書き方みたなHOW TO本は数冊読破。
これを読み終わったら、書き始めるか…と何度も決意しつつ、今に至る。

それでいて、軽井沢で小説を書きたいと宣う俺。
まぁ夢はなんだって持ってていいだろう。この年で歌声一本で、ニューヨークのアポロシアターに出演。全米・全英でスマッシュヒット(?)をするなんてのもいい。
いや、いい じゃない。

ちょっと人生からの逃避がすごいことになっている。これも更年期障害の一種だろうか…。

アラフィフは無理をしないのが大事

最近ショックを受けたことの一つに、神経衰弱がある。
娘とたまにやるのだが、もうやりたくないとすら思う。はっきりいって、位置がまったく覚えられないからだ。完全に記憶力が減退しているのだろう。普段生活しているとそこまで分からなかったが、こういうシンプルなものをやってみると本当に能力が衰えているのがわかる。

もちろん、娘にまったく歯が立たない。

仕事などでも、新たなスキルを得るべく、勉強したいという欲求はある。
しかし、意欲がわかないのだ。やっても、なんだか理解が遅い。人生の折り返し地点も超えて、もはや中高年の域である。

人によっては、まだまだ新たなスキルが得られるからがんばろうという人もいるだろう。
しかし、俺はとりわけビジネス的なスキルを得ることに躍起になるのはやめようと思っている。プログラミングにしても、pythonを頑張っていたのだが、一考に成熟しない。マスターしたと思って先に進むと、前のことを忘れている始末。

新たなことに取り組むことはいいことだ。
でも、ビジネス的なものはもういいだろう。
なんだか、学ぶことも、学ばないことに対する罪悪感も疲れる。

今までやってきたことに毛が生えた程度で、薄くのばして頑張ればいい。
プログラミングをマスターしてこれからなにすんねん?という感じである。

ということで、俺のリスキリングは歌とスケボーにした。
スケボーは娘の付き添いで今度体験に行くのだが、いっそやってみちゃおうかなと思っている。

どうせ学ぶなら遊び方面がいい。
仕事なんかなくなっても楽しめる方面にスキルを広げていこうと考える今日この頃である。

ChatGPTがすげえ

何かと話題のチャットGPTである。簡単に言えば、AIが文章を書いてくれるテクノロジーだ。
こういう新しものが好きなので、早速試してみた。使いかたは簡単。
チャット窓に文章を打ち込めばそれに返答する形で文章が返ってくる。
amazonのアレクサ的でもあるが、この帰ってきた文が結構すごい。どこかにあるものを、コピペしてくるのではなく、AIがまさに文章をその場で生成するから、ライブ感がある。

なんか、知的な人と対話しているような気になるのだ。
実際は内容的にはかなり不正確なのだが、文章的には違和感がない。

考えればこの「違和感」が、コンピューターと人間を分けていたのだと思う。翻訳にしたって、やっぱりどうやったって変な違和感のある文章が混ざる。ここら辺がやっぱ人間じゃなきゃなぁと思わせるのであるが、その違和感がないのだ。

文章生成もさることながら、一番驚いたのがプログラミングである。チャットに「python 年齢を打ち込むと干支がわかる」と打ち込むとどうだ。
俺が初期に学んだpythonの干支のプログラミングがものの5秒くらいで現れる。どうやら「python テトリス」などと打ち込めばゲームのプログラミングがザーッと現れるらしい。

凄いのは、やり直すたびに異なる文章やプログラムを生成してくれることである。まさに、その場で生成するから逆に同一にならない。

このChatGPTのプログラミングを知って、俺は数年前から学習していたpythonを学ぶのを辞めた。
はっきりいって無駄である。
それよりもこれを使って、プログラムを作ってもらい、ちょっとした修正をしてアプリを作るみたいな究極のエコプログラミングのほうがきっといいだろう。

文章生成のほうも、さっそく仕事に活かしている。商品説明を生成してもらい、添削するだけ。いままで、自分の頭で捻りだして時間がかかっていたが、結果的ににめちゃくちゃ早くできた。

このテクノロジーのせいで、おそらく多くの小さな仕事が消滅するだろう。
昔やっていた、ウエブライターなんてまさに消滅第一候補だ。恐ろしいといえばそうだが、出てきてしまったものはしょうがない。その尻馬に華麗に飛び乗って使いこなすしかないのだろう。

最近みたAIで作られたグラビアアイドルみたいのも凄すぎる。近い未来に、アイドルすら現物がいらなくなる可能性がある。なんだかすごいよねしかし。
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