R太のざっくり雑記

50代おじさんです。ベトナム出張がブログの書き始め。現在は、育児や料理、英語など興味のあることをざっくり備忘録として記してます。質はともあれ、なるべく頻繁に更新します!

雑感

自分を変えるのは難しい…

この年になって自分を変化させる難しさを感じる。
この年になっても大いに人見知りであり、人目を気にするタイプである。
もういいだろう、といいたいのだがなかなか社交的な人間になるのが難しい。

なぜ変化させたいか、ちょっとした理由もある。

娘の症状として場面緘黙がある。
家族の前だとべらべら話すのに、学校など一定の場面に入ると、まったく話せなくなる。
まったくというのは、文字通り0である。
人によって、ここは差がある。娘の場合は0である。

そうなると、話しかけてくれることにありがたみを感じるのだ。
学校内や習い事でも、話さない娘に果敢に話しかけてくれる子たちがいる。
正直、敬服する。

翻って自分。
話せないばかりか、口数が少ない人に話しかけるのなんて、難易度マックスだ。

いろいろ考えてしまうからだ。迷惑ではないか?とか余計なことを。
そう、この年になってもまだ傷つきたくないという精神がビンビンに働く。
しかし娘を通すとたとえ、話しかけた人が無表情や反応が鈍くても、とっても喜ぶ人がいるとわかった。
いや、たしかに自分にコミュ力がない人ほど、話しかけられたりするとうれしいのだ。

そう考えると、自分を捨ててでもコミュ力モンスターになって、そういう人を喜ばせたいと感じた昨今。
しかし、まじでむずい。

そう、一日くらいはできる。
実際やった。かなりの陽気さでもって、いろいろな話題をふる。
しかし、疲れ果てるのだ。
そして、翌日にはまた陰気な優男になり果てる(いやそこまでじゃないけど)

いままでは、陰気さも肯定してきた。
内省的な人間ほど奥深い…とかなんとか。
しかし、娘のこともあって奥深いことになんか意味あるか?と

果たして緘黙の人がいて、陽気に話しかけてあとを引きずらない。
そんなモンスターのようなことが自分にできるのか。
いや、する必要がある。
もういい年だ。傷なんかついたってかまわないじゃないか。
正直、認知行動療法てきに繰り返してればそうなると思う。
しかし、繰り返すのがダイエット以上に難しいんだよなぁ

今のパチスロって演出すごすぎるけど意味わからん

パチスロっていっても実際のギャンブルのじゃなくてメダルゲームコーナーにあるやつ。
100円で30ゲーム、4,5,6の高設定になっててまぁ遊びのスロットだけど、
実際にパチ屋にあるものと同じスロットである。

息子がゲーセンとメダルゲームをいたく好むので、たまに行ってる。
そこで、パチスロがあるのだが大当たりすればメダルがでてくる。
メダルは買えば400枚で1300円くらいだから、1000円以内に一発当てて400枚超えを果たせば、実質儲けたことになるというちょっとしたギャンブル心をくすぐる設計。
すでに息子は、何度かスロットで千枚超えを果たしているので、ちょこまかとお金をつかって遊んでいる。
最初は敬遠していたが、やり始めるとこれがけっこう楽しいのである。

なにを隠そう、20年前くらいは中毒くらいにパチスロにはまった時期があった。
好きなのはカエルでおなじみパルサーシリーズであった。
その時代から北斗の拳はあったり、ヤッターマンシリーズのドロンジョにおまかせなんていうのも楽しかったね。
もちろん、ギャンブルなんで1000円が紙屑のように消えていく。
しかし、いい台だとやっぱり出るんだよね。そして、景品の箱に入ったボールペンを何個ももって景品交換所に行く快感ね。
当時は煙草も吸ってたので、あたり確定のリーチ目が来たら一度席をたってコーヒーを買ってきたものだった。
777を揃える瞬間を煙草とコーヒーで、幸福度を最大値にしたもんだった。
そんなことしてるもんだから、その後も煙草をやめるのに四苦八苦したのだ。

ところで、そんな昔のパチスロはリーチ目というのがあってそれが来たら、近々に777を目押しで揃えるのである。
必ずそろえるのは自分であった。
目押しが下手でまるで揃えられず、見かねた隣の人がやってくれたりなどの人情噺(?)もあったもんだ。
しかし、今のパチスロはどうだ?なんだか知らないうちに当たっちゃってるじゃないか。
とにかく演出が半端ない。風がぶわーっとでるは、光と音と映像のコラボレーション。これはあかん。
中毒性を高める演出である。
メダルゲームのスロットですら大興奮するんだから、本チャンのものだったらどれほどアドレナリンが出ちゃうかこわすぎるわ。

あの時代にかなりパチンコパチスロはやった。一度、500円で13万くらい稼いだことがあった。思えばあれが引き金で、その後はまったのだろう。
どう考えても100万くらい負けたのではないか。そう思うくらいやった気がする。
そう考えると初期にわざと勝たせる詐欺の手口に似ている。

いまは思う。
パチスロなんて馬鹿らしいと 
しかし、この考えつくされた演出の今のパチスロ台にはまってしまったら…やっぱり怖いんだよなぁ。

笑いでいじめを克服とかいうエピソード害悪でしかない…

お笑い芸人に多いが学生時代にいじめられていて、不良グループに物まねや笑いを披露して
爆笑をさらっていじめられなくなったというエピソード。これやめて欲しいな。
そもそも、いじめられてんのに何で媚びなくちゃならないのだという面からもう嫌だね。
でもちょくちょく記事などでみかける。

分かるんだよ。そういうこと、結構ある。
危機回避のために特技を生かす。これ自体にまったく違和感はないんだけどね。
問題はいじめられたり弄られたりしている、その状態である。
これを笑いで切り抜けて、そこから人気者。まったくの生存者バイアスじゃないか。

生存者バイアスってのは厄介である。
数多の影に、苛め抜かれて自殺したり、それがトラウマになり精神をおかしくした人がいる。

小学生時代にとてもいじめられている同級生がいた。
中学で不良に狙われて、やられまくっている別の同級生がいた。
大人になってから、地元で彼らの噂をきいた。
どちらも、引きこもってしまい、精神を病んだような大人になっているようだ。

自分も少なからず中学生時代に不良のターゲットになりいじめられた経験がある。
今も、あの時の屈辱は忘れないし、少しトラウマになっている。

よく聞く話だが、いじめていた方は陽キャになり人生を謳歌し、やられていたほうは生涯苦しむ。
たまに、逆転できることもあるがそんなことは稀であろう。
学生時代のちょっとした遊び程度であるが、ヤラレタ方は人生を台無しにする事態にもなる。

バカにされていたところから、成り上がるのがある意味のお笑いの強さで有ろう。
しかし、その場合のバカにしている人たちは大人で有ったり権力者であったりする。
少なくともいじめっ子であってはならない。

無自覚であるが、日本ではいじめっ子を学生時代のヒエラルキーの上においている。
それはアカンだろう。少なくとも、そこから引きづり降ろす必要がある。

こういったエピソードはいじめっ子を学校の偉いモノととらえて、そこに笑いを与えて気に入られるというプロセスがみえる。
だからこそ、なにか胸が痛く気持ち悪い気になる。
エピソードを話している人間にとっては無自覚であるのもキツイ。

自動運転で防げるなら早急にそうしてくれ

高速道路でトラックが突っ込み5人の一家が亡くなった事故。
当初は、もう一人の男性含め身元が判明しなかった。
そのため、不法入国外国人ではないか?などと憶測を呼んだが…

大阪のUSJへ行く途中の幸せ絶頂のファミリーであった。
お子さんもみな小さく、未来がありまくる家族。その生命を一瞬の不注意が奪い去った。
罪深すぎる。
運転手は飲酒していたのでもなく、ショート動画を見ていたらしい。
本当に一瞬の不注意であり、もしかしたら自分もやりかねない怖さを感じる。

一家がもろとも全滅するという事故は、うっすら覚えているだけでも
なんこかある。
どれも小さな車という空間に家族がいる というのが共通している。
あまり普段考えないが車の室内というのは、そういった意味でとてもリスクがある。

昔テレビであるドキュメンタリーをみた。海外のものだった。
自動運転関連のソフトウェアかハードかわからないけどそういう会社を創業した人のやつ。
原点は自動車事故で友人を亡くしたことだった。
自動運転により、不注意での事故が防がれるという理想を掲げて頑張っている人だったような。

自動運転技術 賛否両論あろうが、もしそれが実現したなら今回のようなケアレスミスによる事故は防げたのではないだろうか。
とりわけ、長距離で運転するトラックは人の判断が鈍れば本当に危ない。
運転的には高速道路なんて単調なのだから、自動運転には向いているだろう。

今の日本をみると、保護政策なのか電気自動車や自動運転技術への関心が薄い。
そういっているまに世界に取り残されていきそうな勢いである。
ガソリン車で人力運転。その怖さは高齢者の事故などもみればよくわかる。

そろそろ自動運転や電気自動車に本腰を入れてほしい。
人を罰するのは当たり前だが、もう社会的に変化していかなくては事故はなくならないのではないだろうか。

10年前は元気があった

50代、やる気、死亡確認。

最近はっきりした。
俺のやる気、もう死んでる。

いや、厳密に言うと――
40代の俺がバグってただけだ。

オンライン英会話、Python、ジョギング、TED、小説執筆、月10冊読書。
今見ると、完全に「何かに取り憑かれていた人間のログ」である。

TEDなんて、今の俺が開いたらどうなるか。
開始3秒で「で、結論は?」
10秒で「長い」
30秒で「もういいや」
成長よりも時短を求める身体になってしまった。

小説執筆もやばかった。

小説を読むのが好きすぎて、
「俺も書けるのでは?」という、あの甘い錯覚。

指南書を読み込み、プロットを作り、
意気揚々と書き上げた結果――

驚くほど、面白くない。

逆に才能を感じるレベルで面白くない。
あそこまでつまらないものを、よく最後まで書いたと思う。

で、応募。
もちろん何も起きない。

だが当時の俺は違う。
「まぁ次だな」と普通に思っていた。
あのメンタル、今なら宗教として売れる。

生活も狂っていた(褒めてる)。
早朝ジョギング→帰宅→オンライン英会話。

今同じことやったら、
途中で「俺、何と戦ってるんだ?」ってなる。

で、現在。

新しいこと?
やる気ゼロ。

小説?
二度と書かない。
いや、書けない。
脳が拒否している。

ジョギング?
やらなきゃと思いながら、
腹だけ順調に成長している。

加齢。
これ、かなり凶悪である。

ミッドライフクライシス?
違う。
もっと地味で、もっと確実なやつだ。

「ただの劣化」である。

しかも静かに進行する。
気づいたときには、
“頑張る自分”がどこにもいない。

ただ、ひとつだけ残った。

ギター。

なぜかこれだけは続いている。
一人じゃ絶対やらないので、
ジモティで人を集めたら――

普通に集まった。怖い。

逃げられなくなった俺は、
仕方なく練習している。

人間、追い込まれるとやるらしい。
ブラック企業と同じ構造である。

でも思う。

もう「何かを成し遂げる」とか、どうでもいい。
そういうフェーズは終わった。

その代わりに、
「やめないものが一個ある」
それだけで、人生は意外と持つ。

少なくとも、
「趣味:ネトフリを見て一日終了」にはならなかった。

完全に勝ちではないが、
負けきってもいない。

そんな感じで、

今日もギターを触っている。

父と暴力

父親をやっていると、あわや!という危機はある。
とてもヤバい時が、思い出しただけでも2,3回ある。
なんというか、我を失ってしまう瞬間である。
わりと穏やかで通っている自分ですら、そんな瞬間が何度かあった。

小さいとき娘が病気になり薬を飲まなくては、いけなかった。
いやがる娘をなんとかなだめて、口に運んでも2度ほどはねのけられた。
そして、もう薬がなくなるというタイミング。
うまく、ゼリーに溶かして口に運ぶその刹那。すでに暴れていたので、こっちも疲弊状態。
もうこの薬しかない。このタイミングでの大暴れ…。

とんでもなくカー―っとなり、膝に抱えていた娘を一瞬で突き飛ばした。
後ろにスローモーションで倒れる瞬間に、なんとか太ももで支え、態勢をもどしたが、
あのまま後ろに倒れていたら、鉄製の置物があり完全にやばかった。

同じようなことは息子にもあったなぁ。

たまたま事なきを得たものも多い。
かならず、そこには「怒り」がある。抑えきれないアンガーだ。
これを、自分なりに分析したところ、睡眠不足がまずあった。
そして、「酒」である。

酒はかなりやっかいだ。
脳に直接働きかけ、怒りを増幅させる。もちろん、楽しいことだけしてれば楽しいのだが、
そこに理不尽なことが重なると、カーっと怒りのエネルギーが爆発するのだ。

自分を分析して、いまではかなり怒りを抑えることができるようになった。
ある記事かつぶやきがあった。
父親はたいていの場合、家庭というコミュニティの中で一番の強者である。
とりわけ子供が小さいうちは、体力的にもっとも強く、父親が本気で暴れたら家人はだれも止められない。

そいういった、恐怖の存在である というのをまずは意識すべきである。

自分は父親であるが、たとえば家庭内に自分以外に一人、全盛期の元タイガーマスク佐山聡がいたらどうだろうか。
毎度仕事に疲れて帰ってきたら、佐山がいるのである。
ちょっと気に入らないことをしたら、お前なめてんだろ!とにじり寄ってきて、パチンとひっぱたかれ、全体重をのせた蹴りを尻にくらう。まったくリラックスできない。

自分が肉体的に強い、と意識すれば、いかに家族にその恐怖を負わせないかを考えられる。

いまでは、子供らは父親である自分に無茶苦茶やってくる。逆に尻をけられる始末。
まったく怖がっていない。

これは、父親として成功しているといえる。

人によっては、家の中で怖い存在が必要だという。
たいていそういうのは、おっさんであり父親が言っている。

でも、どうだ。自分が帰ったら機嫌の悪い佐山聡がリビングにいたら…
まじで嫌だよ。
たとえなめられようと、つねにそのイメージをもって、安心感を与えるようにしたいのだ。

加齢は不治の病と同じである

50歳を超えるとまじで、体がだるく常に眠い。
太りやすくなっているにもかかわらず、お菓子を食べてしまう。
つまりこらえ性もなくなっている。

メンタルはやや落ち着いているが、フィジカルがまじでひどい。
人によっては、ジムにいって鍛えたり食生活を見直したりして、
細マッチョでエネルギッシュな脳にして生活を変えようとするかもしれない。

でもね、もう年なんだよ。50を超えたらはっきりいってもう進行性の老化病なのだ。
無理に若返りを図っても、無理なんだよ。

筋トレをして、サウナいってとか色々肉体改造をかんがえていたけど、もうめんどくせぇ。
楽しく生きれればいいじゃない。
人によっては、家族を守れるために筋肉をつける…。とかいうけど、なんだそんな筋肉を使って守る喧嘩みたいな機会訪れねえって。
それより、そのトレーニングしてる時間を、家族に費やしたほうがいいんじゃないかとも思うわ。

ということで、ぽっちゃり体型を全肯定してみたのである。

しかし加齢というのは怖い。
若いころは、思考が尖っていてもそれすら、かっこよい。
また、陰影が深い孤独。これも、またいいのだ。
なぜって若いから。生物としての未完成度がすべてのネガティブ要素を飲み込んでしまう。

しかし、同じことが50いや40過ぎても言えるのか?否。
家族がいず中高年の孤独が、かっこいいはずがない。
ただの厄介なおっさんだ。
尖った思考で、方々を論破してみろ、おっさんが。
だれからも相手されなくなるだろう。

つくづく、年をとったら傍らには大事な家族。
そんでもって、ぽっちゃり体型を子供に馬鹿にされながら、
穏やかに微笑む。これ一択である。
夕方からジムでトレーニングして、夜はササミ。たんぱく質を計算してプロテイン。
こんな親父きもいわ。

結局肉体的にかっこよくいたいのは、モテたいからだろう。もちろん異性からである。
これは本能だけど、50歳でモテても碌なことはない。
娘からかっこいいパパと思われたい?いやいやそんな体型ごときで変わらねえって。
普段から優しくして、娘の好きなことを全肯定するだけで、ササミばっか食わないでも、
かっこいいパパになれる。

最近は、ぽっちゃりしていたほうが長生きするとすら言われているからね。
こうなったら、
太りすぎず、やせすぎず、お菓子を食べているところを怒られながら、
ゆったり余生を過ごしたいと思う今日このごろだ。

AIによってなくなる職業の筆頭がコンサルという実感

いや正直コンサルタントがどういうものか、本質的には知らない。
そりゃマッキンゼーとかアクセンチュアとかアメリカ大手のコンサルのことはいってない(知らない)。
ではなく、中途半端なコンサルである。

ある意味でいえば、町の高齢者向けのパソコン教室などもコンサルだ。
知らないだれかに、その生活が豊かになるようになにかを教えるのが、コンサル。
企業的なというよりも、対個人のもの。

「ヤフオク完全攻略ガイド」こんなのもコンサルのひとつといえよう。
そして、まさに最近知人からもらった化石をヤフオクでだしたいなぁと思ったときに、
この攻略ガイドではなく、チャットGPTさんに相談したのだ。

そうしたらどうだ?
ものすごいことになった。
まずもって、AIのすごいことは個別に相談に乗ってくれるところだ。
出品したい画像をのせたら、すんごい具体的に戦略を練ってきた。

どうしたいを聞き出す技術も半端ない。
なんかしらないけど、会話が途切れないように分の最後に必ず質問をぶつけてくる。
そして、面倒なら答えなくてもいい。
AIは人間ではないので気分を害さないのだ。

まぁそんなこんなで、AIさんと一緒に出品したのだが、タイトル付から説明まで
具体的かつ有効なものをものの数十秒でぶっこんでくる。
この体験はもうだめだ。
こんな体験しちゃったあとに、だれが一般的なことがかかれた攻略ガイドを手にするだろうか。

恋愛指南書などもそう。
もはやちょっと躊躇するが、自分の容姿をAIに投げてみなさい。
どうすればいいか…具体的にモテル策を指南してくれるだろう。

いまはいい。ヤフオクに出したばっかりである。逐一いいね の数を報告している。
しかし、入札が入る気配はない。
これで結果がでてしまったらどうする?
もう、本格的にAI以外にはいけなくなるだろう。

モテ指南もそう。
それに従ったあとに、実際に彼女や彼ができたらどうだろうか。

いまは、AIの黎明期である。
すさまじい、具体策や対話能力に舌を巻いている段階だ。
具体的な結果というのは、まだ実体験している人は少ないのではないか?

しかし近々結果をともなった、経験がでてくるだろう。
そうなったときに、AIへの信頼性は不動になる。

そこからが、ちょっと怖いという気がしている。

死ぬ間際でも耳は最後まで聞こえているという説

耳という器官は一番強いという。
よくいうのは、死ぬ直前も耳だけは聞こえているという説。
そのわりには、耳が遠くなるのも早いが、どうなんだろう…。

でも、最近目より耳がやっぱ強いなと思う。
以前は、読書を趣味としていた。
が、目が疲れやすくなり老眼も重なるとなにかを読むという行為が、かなりしんどくなってきた。
でも、情報は得たい。
そうなると、耳で聞いて情報を得る。
不思議と耳はいくら聞いていても疲れるということがない。

voicy など音声だけのサービスを以前は需要あるのか?と思っていたが、
これはなかなか悪くないのである。
目から入る情報と耳から入る情報だと頭に残りやすいのも耳ではないか…と感じている。

最近は楽器もやるからか、音楽もよく聞いている。
電車での移動中は基本、本を読んでいたのだが
最近は耳にワイヤレスイヤホンを入れる機会が増えた。
読書好きとしては忸怩たる思いがなくはないが、
身体の衰えとはこういうものなのだろう。
できなくなったとしても、別のもので代替する。

たしかに人間は生まれたときに目はほぼ機能してない。0.01くらいの視力らしい。
しかし、耳は妊娠6か月くらいの胎児から機能しだすという。
おなかを通して様々な情報を耳でとりいれる。
(この説ただしいか?)
ということで、耳から生まれ耳を残して死んでいく人間にとって
耳というのは大事な器官なのである。

ただ、目が見えなくなるのと耳が聞こえなくなる障がいならどっちをとるかと言われれば、
耳が聞こえないほうを選ぶ。
だって、やっぱり家族の顔とかみたいじゃない。
耳は代替として手話があるからね。

体を売る若い女性たち

映画の炎上を見ていて思ったが、メンタルをやられた若い女性が繁華街に集う。
しかしメンタルが病んでいるので、いわゆる普通の仕事は難しい。
そうなると、もはや稼ぐ手段は体を売るしかない。
ある程度のノウハウを持っている先輩もいるから
やり方を覚えれば、若い女性であればだれでも体を売ることは可能である。

しかも、小一時間ほどで2~3万円を稼ぐことができる。
それでいて、高度なスキルはいらない。
なにしろ、買う方は風俗とは違う素人と性行為をすることが一番の目的だから
接客とかもいらない。若い女性がそこにいさえすればいいのだ。

新宿界隈の立ちんぼといわれるスポットに若くきれいな女性が性を売る。
自分が若いころは街頭に立つ女性はフィリピン人などの外国人が多かった。
そう考えると、かなり様変わりしてしまった気がする。

その様子をみて、失望したり非難したりしてもどうしようもない。
そこに立つ人には、そこに立つ事情があるのだろうから。
できるなら、やりたくないというのは本音だろう。
しかし、生きるためには仕方がないのかもしれない。

仕方がない…ほんとうだろうか。
自分の娘だったらどうだ?幼い時から手塩にかけて育てた娘が、
どこぞのじじいに、嫌々股を開く。
気が狂わんばかりに嫌だな。

結局は他人事なのである。たしかに動画で大久保界隈の立ちんぼなどをみて、
こんな美人さんが…などと思うのだが、ほとんどAVを鑑賞している気分なだけである。

そんなことはやめてくれ、と叫んだところで彼女らの食い扶持を与えられるわけでもない。
市場原理とはかくも残酷である。
会社ではそこそこの役職があるようなおっさんが、
娘の年代のような子たちを性的対象としてみて買う。

売春というは昔から存在する。
需要と供給にもとづいておこなわれていることは、
他者がどんなに理屈を述べても終わることはない。

近しい周りがそうならないようにサポートすることのみである。

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